
牛廻越(うしまわしごえ)は、奈良県十津川村迫西川にある峠。
紀伊半島を横断する国道425号の
和歌山県田辺市龍神と奈良県吉野郡十津川村の
県境より少し十津川側に位置する。標高は約800m。
このあたりは道幅も狭く、ガードレールがない所も多い。
そのため、国道311号開通後このあたりを通る人は少ない。
冬季は積雪のため通行不可となる。
近畿では暗峠、百井別れと並ぶ酷道名所となっている。
近くにある牛廻山は近畿百名山のひとつ。
(Wikipediaより)
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牛廻越えには徒歩で十津川温泉から谷あいを直線的に進み、
小坪瀬から迫西川を経て牛廻山の大峠を越える口太越えのルートがあった。
牛の背に米や味噌を積んでこの道を運んだが峠にかかる頃には道は険しく
人の背に荷物を移し牛を廻した(帰した)ことから牛廻しの名がついたと、
地元では言われている。
昔は村の女や子供の駄賃稼ぎとして、背に荷物を担いで峠を越える仕事があった。
片道を半日かけ、早朝に出掛け夕方に戻る一日仕事だったという。
(Wikipediaより)
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峠の地蔵尊
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木材積み出しのトラックや
地元バスとの擦違いに気を付けながら
バイクで走行~
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正面鳥居
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石垣の上に
本殿舎が見えます~
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由来記依れば~
祭神は菅原道真公(天神さん)
桓武天皇の16代の子孫、平資盛(平清盛の孫、改名して玉置直虎)
文治元年(1185年)摂津の国一ノ谷落城の後、河内の国梅谷で領主となる。
その後、牧田庄大里を経て大和十津川郷の玉置山に移った。
健保五年(1217年)3男の直次が十津川の総地頭として玉置庄司と名乗り
その住居に天神社を建立した。
その後、安貞二年(1228年)西川の河合(川合)の郷に祀り川合神社と称した。
「玉置山権現縁起より」
平 資盛(たいら の すけもり)は、平安時代末期の平家一門の武将。
平清盛の嫡男である平重盛の次男。母は藤原
親盛・あるいは藤原親方の娘。
位階は従三位まで昇叙、新三位中将と称された。
和歌に優れ、『新勅撰和歌集』『風雅和歌集』に名を残している。
寿永3年(1184年)12月、資盛は備前国児島で源範頼と戦い敗北(藤戸の戦い)。
元暦2年(1185年)3月24日、平氏は壇ノ浦の戦いで敗れ、滅亡に至っ
た。資盛は有盛と、従兄弟の平行盛とともに壇ノ浦の急流に身を投じて自害した。
享年25。ただし、『醍醐雑事記』『神皇正統録』の死亡者には資盛の名はない。
(Wikipediaより)
鶴ヶ城(つるがじょう)は、紀伊国(現・和歌山県田辺市龍神村東)にあった日本の城。
別名は増賀城。南北朝時代、玉置直虎(下野守)によって築城された。
玉置氏は紀伊国日高地方に勢力を持ち、直虎は北朝方に属して戦功を上げ、
日高郡山地荘を得る。その地
に鶴ヶ城を築いて居城とした。玉置氏には手取城を居城とした和佐玉置氏と並んで、
こちらは山地玉置氏と称される。
直虎の死後は子の玉置上野が受け継ぎ、代々居城としていたようだが
和佐玉置氏が没落した頃に廃城になったようである。
城は山城で、遺構として石垣と堀の跡が残されている。
(Wikipediaより)
南北朝時代
始期は、建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が
京都で新たに光明天皇(北朝・持明院統)を擁立したのに対抗して、
京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)が
吉野行宮に遷った建武3年/延元元年12月21日(1337年1月23日)、
終期は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に
譲位する形で両朝が合一した明徳3年/元中9年閏10月5日(1392年11月19日)である。
(Wikipediaより)
時代が合わない…
面白そうですが
どういうことやろか?
こんなのは大好きです!
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