古/いにしえの面影       其の一阡七百四拾三
怪しい親爺輪っぱの会
 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2026年01月27日 火曜日
アップ日  2026年03月23日 月曜日

大阪府河内長野市天野町(金剛寺本坊)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

正平9年/文和3年(1354年)3日22日、南朝は観応の擾乱末期に捕縛していた
北朝の光厳上皇・光明上皇・崇光上皇・廃太子直仁親王を、大和国賀名生から
当寺に移動させると塔頭・観蔵院をその行宮(仮の住まい)とした。
10月28日には後村上天皇自身も到来し、塔頭・摩尼院を行宮として、
南朝の本拠地に定めたている。
また、食堂を政庁天野殿(あまのでん)とした。
この時、後醍醐・後村上両帝の腹心で護持僧(祈祷によって天皇を守護する僧)を
務めた文観もまた、当寺に居住した。
その際、当寺の学頭(寺務を統括する僧職)は、膨大な仏教書を書写した
学僧として名高い禅恵で、文観に弟子入りして「門弟随一」と称している。
正平10年/文和4年(1355年)には光明上皇を京都に返し、
正平12年/延文2年(1357年)2月には光厳上皇・崇光上皇・直仁親王も京都に返された。
(Wikipediaより)


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金剛寺山門

※天野川

南朝行在所
摩尼院

※

無量寿院・籠堂

※

北朝行在所
ここは一時的に南北朝が混在し
帝都だったんですね。

※

飾り瓦
牡丹

※

大講堂

※



※金剛寺本坊

表門から~

※

木彫

※

釣瓶

拝観者昇降口

※

大日如来坐像

※小豆で覆われた器

ひゃくみのおんじゃき

室町期の庭園

※お洒落に~

蜂須賀公
千利休
庭師雪舟流
有名処が手がけた庭園ですね。

※枯山水

いろんな角度から~

※

海や島も~

※博物館

霊明殿

※不動明像

いろんな角度から~

※えーお庭です。

回廊の様に成っています。
太鼓

※此処にも~

採光の良い欄間
贅沢な空間

※後村上天皇(ごむらかみてんのう、1328年〈嘉暦3年〉
- 1368年3月29日〈正平23年3月11日〉)は、

日本の第97代天皇、および南朝第2代天皇
(在位:1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉
- 1368年3月29日〈正平23年/応安元年3月11日〉)。

後醍醐天皇の第7皇子で、数多い皇子らの中でただ一人の天皇である。
諱は初め義良(のりよし/のりなが)、即位後に憲良(読み同じ)に改めた。

父の後醍醐天皇の遺志を継いで南朝の京都回復を図る。
東北地方(陸奥国)南部の宮城県多賀城市にある陸奥国府兼鎮守府の多賀城に入城し、
後醍醐天皇が多賀城に創設した奥羽将軍府(東北地方将軍府)のトップとして、
北朝を擁する室町幕府軍と南北朝の内乱を戦った。
のち大和(奈良県)の吉野・賀名生、摂津(大阪府)の住吉などを行宮とした。

1911年(明治44年)、明治天皇の明治政府によって南朝が正統とされたため、
歴代天皇として列された。

(Wikipediaより)

拝観順路はこちら~

※苔庭も綺麗です~

枯山水

※光厳天皇(こうごんてんのう、旧字体: 光嚴天皇、
1313年8月1日〈正和2年7月9日〉- 1364年8月5日〈貞治3年7月7日〉)は

、日本の北朝初代天皇(在位:1331年10月22日〈元弘元年9月20日〉
- 1333年7月7日〈正慶2年5月25日〉)。

諱は量仁(かずひと)。
後伏見天皇(上皇)の第三皇子。
母は左大臣西園寺公衡の娘で後伏見の女御の西園寺寧子(広義門院)。


後醍醐天皇によって廃位されたが、
建武政権崩壊後に治天の君となって北朝を主導し、

室町幕府との公武徳政や『風雅和歌集』の親撰などを行った。
天龍寺や安国寺利生塔の建立にも関与している。
正平一統が破綻した際は、南朝によって拉致された。
(Wikipediaより)

金剛寺本坊 奥殿(北朝御座所観蔵院跡)

欄間
明り取りの意匠

※瓢箪

菊花、御三の桐

※

光明天皇(こうみょうてんのう、1322年1月11日〈元亨元年12月23日〉
- 1380年7月26日〈康暦2年6月24日〉)は、

日本の北朝第2代天皇(在位:1336年9月20日〈建武3年8月15日〉
- 1348年11月18日〈貞和4年10月27日〉)。諱は豊仁(ゆたひと、旧字体: 豐仁)。

後伏見天皇の第九皇子。母は西園寺公衡の女の西園寺寧子。
延元の乱の最中に、光厳上皇の譲国詔によって践祚。
在位中は光厳上皇による院政が敷かれていたため、

めぼしい業績はないが、天皇として、有職故実・芸術・学問の習得に励んだ。
正平一統が破綻した際に、南朝によって拉致されている。
なお、その即位によって北朝が成立したので北朝最初の天皇ということになるが、
明治以降、鎌倉時代末期に在位した兄の光厳天皇が北朝初代天皇として扱われているため、
現在の皇統譜では光明は北朝第2代とされている。
(Wikipediaより)

崇光天皇(すこうてんのう、1334年5月25日〈建武元年4月22日〉
- 1398年1月31日〈応永5年1月13日〉)は、
日本の北朝第3代天皇(在位:1348年11月18日〈貞和4年10月27日〉
- 1351年11月26日〈観応2年11月7日〉)。
諱は益仁(ますひと)、後に興仁(おきひと)。
(Wikipediaより)

※北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、
全国の多くの武士、及び大多数の公家や大覚寺統を含む皇族が支持した、
持明院統の朝廷である。
同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統後醍醐流の南朝(吉野朝廷)に対比する。
南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、
鎌倉時代末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍
醐天皇が京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ
6代の天皇が北朝の天皇とされている。
(Wikipediaより)

牡丹に猫

※
 

※大正期の絵師

畳敷の回廊

※菊の御紋

富士の高嶺

※松原

御座所より~

※子犬図

犬は喜び庭駆け回る~

※

摩尼院の屋根
(後村上天皇天野行宮跡)

※簾内でしょうか~

散華
仏や菩薩が来迎した際に、讃嘆するために大衆や天部の神により
華を降らしたという故事にちなんで行われる。

釈迦仏の前世である儒童梵士(じゅどうぼんし)が燃燈仏に
華を散らして供養した話などはその代表的な例である。

寺院で法要を巌修する時に、仏を供養するため花や葉を撒き散らす。
法要に散華を行うのは、華の芳香によって悪い鬼神などを退却させ、
道場を清めて仏を迎えるためとされる。

元来、蓮などの生花が使われていたが、現在は蓮の形を模った色紙で代用することが多い。
その形から分かるように蓮華を模っている。これは釈迦と深い繋がりがあり、
葬儀など仏を供養する場で撒かれることがある。
この色紙を「華葩(けは)」ともいう。
また入仏開眼や寺院の落慶法要では大量の散華が撒かれる。
散華をコレクションする人々も存在する。
(Wikipediaより)

※光厳天皇図

手入れの良くされた御庭

備前焼の天野酒醸造用大甕

※鶏図

窯元印

※室町時代の永享4年(1432年)頃からは
三大美酒の一つとして名を馳せた銘酒「天野酒」を販売して収入を得たりし、
永正11年(1514年)には依然として塔頭が70から90もあって威勢を誇った。
(Wikipediaより)

回廊欄干にも意匠

※

本坊表門

※砂庭用トンボ!?
レーキ??

本堂に戻ります。

工事中?
と思えば鎮守橋補修中
鎮守橋(国登録有形文化財) -
この橋は天野川に掛かっており、ここを通って鎮守社に参拝する。
(Wikipediaより)

※
やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖擦り合うも他所の縁~
いつまで知った景色が在るのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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