其の一阡七百七拾一
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。
(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)
| 撮影日 2026年04月14日 火曜日 アップ日 2026年04月21日 火曜日 |
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ワッカン~
資料として気になる街角 撮っておきや!(by UFO先生) 天誅組(てんちゅうぐみ)は、幕末に公卿中山忠光を主将に 志士達で構成された尊皇攘夷派の武装集団。 その活動は文久3年8月17日(1863年)の大和国五條代官所討ち入り(挙兵)から、 幕府の追討を受け転戦してのち、同年9月24日から27日にかけて 大和国東吉野村で多くの隊士が戦死して壊滅するまでの 約40日間である(天誅組の変)。天忠組とも。 文久3年(1863年)8月13日、孝明天皇の神武天皇陵参拝、 攘夷親征の詔勅が発せられる(大和行幸)。 8月14日夜、土佐脱藩浪士の吉村寅太郎ら攘夷派浪士約40名が 大和行幸の先鋒となるべく、攘夷派公卿の前侍従中山忠光を主将に迎えて決起した。 これが天誅組の蜂起(結成)と考えられる 。総勢は伏見から船で淀川を下って大坂へ向かう。 翌15日天保山から海路で堺へ向かい、翌16日堺に上陸。そこから河内へと向かう。 これに従軍した半田門吉の『大和日記』によると結成時の同志は38人で、 そのうち18人が土佐脱藩浪士、8人が久留米脱藩浪士であった。 このほか淡路島の勤皇家で大地主であった古東領左衛門は 先祖代々の全財産を処分し、天誅組の軍資金として供出した。 8月17日夕方、五条の町へ着いた彼らは、幕府天領の大和国五条代官所を襲撃(討ち入り)。 代官鈴木正信(源内)の首を刎ね、代官所に火を放った。 桜井寺に本陣を置き五条を天朝直轄地とする旨を宣言し、 「御政府」あるいは「総裁所」を称した。五条御政府と呼ばれる。 9月15日、主力となっていた十津川勢が離反を宣言。 郷士代表の野崎は責を負い自害する。9月19日、忠光は天誅組の解散を命じる。 残党は伊勢方面へ脱出を図るが、9月24日、鷲家口(奈良県東吉野村)で 幕府軍に捕捉され、交戦の末に一行は離散し、吉村、松本など それぞれ逃亡を図ろうとしていた隊士は相次いで戦死または捕縛されるなどした。 この9月24日の鷲家口での戦いが天誅組の組織としての最後の戦闘とされている。 (Wikipediaより) (※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)
やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば… 気を抜いたらあきません~ 何時のが出てくるか判りまへんで! 袖擦り合うも他所の縁~ いつまで知った景色が在るのやら。。 頑張ってボチボチ更新中…^^;
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