古/いにしえの面影       其の一阡七百九拾
怪しい親爺輪っぱの会
 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2026年05月20日 水曜日
アップ日  2026年06月02日 火曜日

和歌山県伊都郡高野町高野山(壇上伽藍)Ⅱ
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

1871年(明治4年)に版籍奉還によって寺領2万1000石は新政府に返還させられ、
また高野山が行っていた自治制を失い、山内に役場の設置、警察の派遣が行われた。
1872年(明治5年)明治政府から太政官布告第98号
「神社仏閣女人結界ノ場所ヲ廃シ登山参詣随意トス」が発布され、近代化政策を進める
新政府によって女人禁制が解かれた。
1873年(明治6年)には高野山所有の山林3000ヘクタールも返上し、
完全に経済的基盤を失うこととなった。
このため還俗し山を去る僧侶も増え廃寺となる寺院が増えていったが、
追い打ちをかけるように1879年(明治12年)の火災で70の堂舎が焼失、
次いで1884年(明治17年)50箇寺焼失、130戸に類焼、
さらに1888年(明治21年)3月23日、24日にも大火災があり多くの寺院、
町家を焼失することとなった。
高野山の危機的状況に1891年(明治24年)高野山の維持と
自立存続を図るために一山が協議し、明治初期に680余箇寺もあった寺院を、
130箇寺まで統廃合することを決定し、現在に近い状態へとなった。
(Wikipediaより)


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三鈷の松(さんこのまつ) - 金堂と御影堂の間にある三葉の松。
松の根が参拝者に踏まれないよう二重の柵で囲まれ、赤松と一緒に植栽されている。
松は単体では生育しにくい性質を持つためにあえて、植栽している。
空海が、恵果から密教を受法後、大同元年(806年)に中国・寧波の浜から
「密教を弘通するため」の地を求めんと願いつつ、三鈷杵(飛行三鈷杵)を投げた。
後に嵯峨天皇より、勅許を得て高野山を下賜され、伽藍を造営の途中に、
空海が松に掛かった三鈷杵を見つけ、高野山を「修禅の道場」とするのに相応の地であると確信した。
空海の霊跡とされる。この松葉は、三鈷杵と同じく三股に分かれている。
現在の「三鈷の松」は七代目で、平成期に植え替えられた。
枯れのときのために同じ株から分けた松を別に育成している。
松は常緑樹が多いが、高野山の「三鈷の松」は秋から冬にかけて落葉するので、「再生」の象徴される。
落葉した三葉の松葉は黄金色をしており、身につけていると「金運」を招く縁起物として、
また、「飛行三鈷杵」の霊験にあやかるため、「お守り」とするために探し求める参拝者もいる。
(Wikipediaより)

※御影堂

御影堂(みえどう)(重要文化財) - 大師の持仏堂として創建され、
天保14年(1843年)の大火で消失し、弘化4年(1847年)再建、
梁間15.1メートルの向背付宝形造檜皮葺。
空海の弟子の真如親王筆とされる弘法大師御影を本尊とし、
外陣には空海十大弟子の肖像が掲げられている。
堂の背後には、土蔵造りの御影堂宝蔵があり、かつては数々の霊宝や
貴重な文書を保管する金庫や宝物庫としての重要な役割を果たした。
毎年、空海が入定した旧暦の3月21日に旧正御影供が行われ、
前夜の御逮夜法会(おたいやほうえ)のときのみ一般の外陣参拝が許される。
御逮夜法会では宗教舞踏の奉納や、御影堂まわり一面にロウソクと花が供えられる。
(Wikipediaより)

※正面鳳凰

透かし彫りの木鼻

※蟇股には唐獅子牡丹

唐獅子牡丹

※孔雀と牡丹

鐘楼



 准胝堂(じゅんていどう)(重要文化財) -
光孝天皇の御願により第二世真然大徳が973年ごろ創建、
現在の堂は1883年(明治16年)再建。
本尊は准胝観音(准胝仏母)で、空海が出家得度の際の
本尊として自ら造立したと伝わり、当初、食堂に安置していたが
当堂を創建後に移したと伝わる。
(Wikipediaより)



正面龍



透かし彫り



宮大工のニヤリが見えそう~



逆指しの藤 - 寺伝によると、
平安時代に高野山再興に着手した定誉が、高野山の再興を誓い
「願掛け」として藤を地面へ逆さに植えると、不思議と芽生え、
それとともに高野山の再興の兆しが見え始めたと伝わる。
(Wikipediaより)



孔雀堂(くじゃくどう) - 1200年初代建立、
弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業として1983年(昭和58年)再建。
後鳥羽法皇の御願による神泉苑での請雨祈願が成就したことにより奉納された堂。
本尊の快慶作の孔雀明王像(重要文化財)は霊宝館に移され、
当堂には新しく造られた像が安置された。
(Wikipediaより)



鐘楼



西塔(さいとう)(重要文化財) -
空海の伽藍建立計画の『御図記』に従い創建され、
空海が構想した大日如来の密教世界を具体的に表現する
「法界体性塔(ほっかいたいしょうとう)」として根本大塔と
西塔を二基一対として建立され、根本大塔の本尊が胎蔵界大日如来であるのに対し、
金剛界大日如来像と江戸時代作で胎蔵界四仏の宝幢如来・開敷華王如来・
無量寿如来・天鼓雷音如来を安置する。
仁和3年(887年)初代塔建立、現在の塔は5代目で天保5年(1834年)の再建で
擬宝珠(ぎぼし)高欄付多宝塔で屋根は本瓦型銅板葺である。
高さ27.27m。再建にあたり、西塔近くの正智院住職が二十数年、
三代におよび私財をなげうち勧進をしたと伝わる。
(Wikipediaより)

※説明板

側面

※裏側

中門用材伐採切り株

※説明板

改修中の
御社(みやしろ)(重要文化財) -
明神社で1522年の再建、重要文化財指定名称は「山王院本殿」である。
弘法大師が弘仁10年(819年)に山麓の丹生都比売神社(天野社)から
地主神として勧請、高野山の鎮守としている。高野山開創の伝承にあるが、
高野山一帯は丹生(にう)明神の神領であり、弘法大師が密教を広めるには、
日本の地元の神々によってその教えが尊ばれ守られるとする思想を打ち出し、
神仏習合思想の大きな原動力になる。
高野山においても修行者らを護り導くとされる四社明神への信仰は現在でも
大切にされている。
社殿は三つあり、一ノ宮は丹生明神・気比明神、二ノ宮は高野明神(狩場明神)
・厳島明神、総社は十二王子・百二十伴神がまつられ、一ノ宮とノ二宮の構造形式は春日造で、
総社は三間社流見世棚造(さんげんしゃながれみせだなづくり)であり、
いずれも檜皮葺の屋根で仕上げられている。
(Wikipediaより)

※山王院

山王院(さんのういん) - 承安4年(1174年)以前の創建で1845年再建、
御社(明神社)の拝殿として建てられた。
両側面向拝付入母屋造り(りょうがわめんこうはいつきいりもやづくり)の建物であり、
桁行21.3メートル、梁間7.8メートル。
山王院とは地主の神を山王として礼拝する場所の意味。
堂では、毎年竪精(りっせい)論議や御最勝講(みさいしょうこう)などの重要行事や
問答が行われ、高野山の鎮守たる明神(みょうじん)さまに神法楽(じんほうらく)として
捧げられている。
同様に毎月16日にも月次門徒・問講の法会が行われている。
(Wikipediaより)

※扁額は三十六歌仙







六角経蔵(ろっかくきょうぞう)(登録有形文化財) - 1934年再建。
鳥羽法皇の菩提を弔うため、皇后の美福門院得子が1159年に創建し、
紺紙に金泥で浄写した紺紙金泥一切経を1000巻納めるとともに紀伊国荒川荘を寄進した。
そのため、別名荒川経蔵と呼ばれ、一切経は荒川経または美福院経と呼ばれる。
重要文化財の一切経は霊宝館に移されたが、写しが納められている。
基壇は円形で上部に基壇と同じ円形の把手がついた幅20センチメートルほどの枠があり、
把手を押すことで基壇に沿って回すことができ、一回転すれば一切経を一通り称えたのと
同じ功徳が得られるとされる。
(Wikipediaより)

※大きな摩尼車!?
マニ車(まにぐるま、摩尼車)とは、チベット仏教で用いられる仏具で、

筒状の本体内部に真言を書いた紙などを納め、回転させることで
経典を読誦したのと同じ功徳が得られるとされる転経器です。
(AI回答)
 
案外、人気なんですわ。


※金堂飾り瓦には三鈷杵

帰途のR480からの大門遥拝所

※周りは700m越えの峰
 
標高400mまで下って~

※花坂の焼餅屋さんで~
 
私の好みの焼餅
掛商店サン