古/いにしえの面影       其の一阡七百八拾九
怪しい親爺輪っぱの会
 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2026年05月20日 水曜日
アップ日  2026年06月02日 火曜日

和歌山県伊都郡高野町高野山(壇上伽藍)Ⅰ
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

鎌倉末期から南北朝が合一に至るまで日本全土に争乱が続く中、
大勢力となっていた高野山に南北朝両勢力よ
り協力要請などの働きかけがあったが、
高野山は一貫して中立を保っていたため、南朝の後醍醐天皇が
1334年に愛染堂を寄進、また南北朝統一後すぐに
北朝方の足利尊氏は高野山の段銭や諸役の免除、
寺領への守護不入の権利を与え手厚く庇護した。
その後、足利尊氏、義満が高野参詣し、室町幕府とも良好な関係が続く。

戦国時代の高野山は寺領17万石、3万の僧兵を擁す巨大勢力であったため、
織田信長の標的の一つであったが、天正8年(1580年)に
織田信長に謀反を起こした荒木村重が家臣数人とともに高野山へ逃げ込んだため、
信長家臣三十数名が取り調べに高野山へ来たが、行人方山徒が
足軽達は捜索ではなく乱暴狼藉を働いたという理由で誅殺してしまう。
激怒した信長は畿内を巡遊していた高野聖1383人を捉え惨殺し、
さらに数万の軍勢で高野山攻めが行われた。
しかし、ほどなく信長が本能寺の変で倒れたため、高野山は取り敢えずの難を免れた。
しかし豊臣秀吉は、根来攻めに引き続き、高野山に使者を派遣し
寺領の返還や武装解除を迫るなどの条件をだし降伏を勧めた。
当時高野山にいた武士出身の僧・木食応其が仲介者となって
秀吉に武装解除などの服従を誓ったため、石高は減らされたものの、
高野山は存続することができた。
のちに秀吉は応其を強く信頼し帰依するようになり、
最終的に2万1000石の寺領が安堵され、秀吉は永正18年(1521年)に消失
した伽藍の大塔、金堂など25棟の堂宇の再建に協力し、興山寺や母・大政所の菩提のために
青巌寺(豊臣秀次が自刃した場所としても知られ、現在の総本山金剛峯寺の前身である)を
建て高野山を庇護することとなった。
応其は、秀吉の高野山攻めを阻止しただけでなく、秀吉の信頼を得、
庇護につなげたため、「高野は応其にしてならず」と言わしめたと伝わる。
(Wikipediaより)


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寺内町的な街並み

※土産物屋さんも~

金剛峯寺境内横目に~

※駐車場も有ります。

朱塗りの橋



両替は大変!

※霊宝館前の石畳

宿坊



融通辯財天

※藤の花も~

此処も宿坊なんです。
大阪市内の小学生は林間学校で
宿坊に泊まった思い出も~私も!



金剛峯寺勧学院
勧学院 - 北条時宗
北条時宗が金剛三昧院境内に僧侶の勉学・修練のための道場として建立。
後の文保2年(1318年)に、後宇多法皇の院宣により現在位置に移される。
本尊は重要文化財の大日如来。
現在でも勉学・修練の行事である勧学会が毎年行われている。(一般には非公開)
(Wikipediaより)



こんな絵に成る路地~

※地蔵尊も~

中門
中門(ちゅうもん) - 弘仁10年(819年)創建。
天保14年(1843年)に焼失後172年ぶりの再建で、高野山開創1200年記念事業として、
2015年(平成27年)4月2日落慶、旧・中門には、持国天・多聞天(江戸時代末期の作)が
安置されていたが難をのがれ、根本大塔内に保管されていたものを
仏師松本明慶が修理をし、さらに、増長天・広目天像も新造して
四天王像を安置する四天門として甦った。

再建された中門は、元の位置より金堂寄りに建てられていて、
元の中門の礎石が今も残り、見ることができる。

(Wikipediaより)



松本 明慶(まつもと みょうけい、1945年〈昭和20年〉6月23日 - )は、
京都市生まれの現代日本の仏師。
慶派に属するとされる椿井仏所の流れを汲み、

「平成の名仏師」と称される。
(Wikipediaより)
南側


※吽

南側

トンボは前向きな信仰

※吽
セミはお経の声明を表すとか~

踏まれ邪鬼



此方も~



悪気は無いんですが~なんて!


 


金堂
金堂(こんどう) (重要文化財) - 高野山の総本堂。
初代の堂は大師により弘仁10年(819年)から造営し承和5年(838年)に完成したと伝わる。
6代目の堂は萬延元年(1860年)に再建されたが66年後の1926年(昭和元年)12月26日未明に、
創建当初のものと云わる本尊と6体の仏像(金剛薩埵坐像、金剛王菩薩坐像、不動明王坐像、
降三世明王立像、普賢延命菩薩坐像、虚空蔵菩薩坐像)と共に焼失した。
本尊の像名は薬師如来とされてきたが、焼失した旧本尊も、現在の金堂再建時に新造された
高村光雲作の丈六の新本尊も、公開されたことのない秘仏であったため、
阿閦如来とする説もあり、新本尊が高野山開創1200年を記念して
2015年(平成27年)4月2日から5月21日まで初めて開帳されたのを機に、
両者は同体で像容は阿閦如来であるが、像名は薬師如来とされた。
(Wikipediaより)

※高野杉

 弘法大師が大鐘の鋳造を発願され、
真然大徳の時代になってようやく完成したと伝わる「大塔の鐘」。

火災等により度々鐘楼が焼失し、改鋳が繰り返され現在の銅鐘は、
1547年(天文16年)に完成したものです。

直径が約2mと非常に大きく、日本で4番目に大きな鐘であったことから
「高野四郎」の愛称で呼ばれるようになりました。

現在でも使われており、午前4時、午後1時、午後6時、
午後9時、午後11時と1日5回時刻を知らせています。

(高野山観光HPより)



大塔(だいとう)
壇上伽藍内でも鮮やかな朱色で一際目を引く大塔。
弘法大師と真然大徳の二代にわたり造られた真言密教の根本道場としての
象徴的建造物で根本大塔と呼ばれています。
多宝塔様式の建造物としては日本初の物と言われています。
内部には胎蔵界大日如来を中心とし、周囲に金剛界四仏、16本の柱に十六大菩薩、
そして壁の四隅には密教を伝えた八祖像が描かれおり、堂内が立体曼荼羅となっています。
度重なる落雷等で何度も焼けましたが、都度再建されており現在の塔は、
1934年(昭和9年)に再建されたものです。
(高野山観光HPより)


 


御供所

※金堂脇から~

蓮池

※蓮池(はすいけ) - 名の由来は、昭和の頃まで蓮の花が咲き誇っていたため。
明和年間(1764年 - 1772年)に度々の干ばつで民衆が苦しんでいたため、
明和8年(1771年)頃、善女竜王像と仏舎利を池の中島の祠に祀ったと伝わる。
1996年(平成8年)橋と祠を修復。
(Wikipediaより)

朱塗りの橋





池の向こうに~
※愛染堂(あいぜんどう)(重要文化財) - 建武元年(1334年)に初代建立、

現在の堂は1848年(嘉永元年)再建。
後醍醐天皇の勅願により四海静平、玉体安穏(天下泰平)を祈念のため創建。
本尊は後醍醐天皇と等身とされる愛染明王。

不動堂(ふどうどう)(国宝) - 建久8年(1197年)
上皇の皇女八條女院内親王の発願により行勝上人が創建。
現在の堂は14世紀初頭に再建で、高野山内では金剛三昧院多宝塔に次ぎ、
2番目に古い建築物。
高野山内の一心院谷から、1908年(明治41年)に現在地に移築された。
桧皮葺(ひわだぶき)、入母屋造の住宅風仏堂である。
当初は阿弥陀堂であったと推定されるが、後に本尊の不動明王(重要文化財)と
運慶作の八大童子像(国宝)が奉安され、現在いずれも霊宝館に移されている。
堂の四隅の形状がそれぞれ違い、四隅それぞれを四人の工匠が随意に造ったためと伝わる。
近年の解体修理報告書によると元来、僧侶が臨終を迎えるための堂だったとの説がある。
(Wikipediaより)

大塔もチラリと~

※参道向こうに
大会堂(だいえどう)(重要文化財) - 安元元年(1175年)
鳥羽上皇の皇女五辻斎院頌子内親王が父の追福のため創建。
もとは東別所にあったが西行法師が、長日不断談義の学堂として
現在地に移し蓮華乗院と称していた。
後に法会の集会堂になり、現在の堂は嘉永元年(1848年)再建。
本尊は阿弥陀如来。
(Wikipediaより)

蓮池説明板



高野天川線

※苔も奇麗に~