古/いにしえの面影       其の一阡七百参拾
怪しい親爺輪っぱの会
 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2026年01月11日 日曜日
アップ日  2026年03月18日 水曜日

和歌山県和歌山市一番丁(和歌山城)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

和歌山城(わかやまじょう)は、和歌山県和歌山市一番丁にある日本の城(平山城)。
徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川家の居城である。
城跡は国の史跡に指定されている。
和歌山城は和歌山市の中心部に位置する標高48.9mの虎伏山(とらふすやま)山頂に建造され、
北部を流れる紀の川を天然の堀とする。
本丸の北側に二の丸が配され、その外に大きく三の丸が配された、梯郭式平山城である。

徳川頼宣は1621年(元和7年)より城の大改修と城下町の拡張を始め、
計画では完成時より更に大規模な城構えになる予定であったが、
大規模な改修であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどであった。
しかし、附家老安藤直次の弁明で事なきを得た。
また、外堀も拡張して総構えにしようとしたが、
これも幕府より嫌疑をかけられ中止させられてしまったため、堀止の地名が残っている。
後、数度の火災に遭ったが、その度に再建された。
現在、城跡として現存しているのは最盛期の4分の1ほどの面積である。

その他、特徴としては時代によって異なる石垣の積み方などがある。
それに、豊臣・浅野時代の石垣には刻印された石垣石がある。
模様は約170種類、2,100個以上の石に確認されているが、その大半が和泉砂石である。
(Wikipediaより)

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明治維新後も本丸の天守、櫓群は遺ったが太平洋戦争末期の和歌山大空襲で焼失する。
現在は、本丸と二の丸が市立和歌山城公園となっており、
本丸南西部には和歌山県護国神社があり、南の丸には和歌山城公園動物園がある。
主に三の丸跡等には和歌山県庁舎、和歌山市役所や和歌山市消防局、
和歌山地方裁判所・和歌山家庭裁判所・和歌山地方検察庁をはじめ公的機関や学校、
商業施設、オフィス街、和歌山中央郵便局、県立近代美術館・県立博物館などがある。
(Wikipediaより)

※復元された物ですが~

元の鬼瓦

※鯱

陣羽織

※龍吐水





安土桃山時代に豊臣秀吉は、1585年(天正13年)の紀州征伐に自ら出陣し、
その弟・豊臣秀長はその副将として従軍した(小瀬甫庵『太閤記』)。
平定後に秀長は紀伊・和泉の2ヶ国を加増・転封された(『天正記』)。
当時は「若山」と呼ばれたこの地に秀吉が築城を命じ、
自ら「吹上の峰」を城地に選定し縄張りを行った。
普請奉行に藤堂高虎、補佐役に羽田正親、横浜良慶を任じ、1年で完成させた。
この際に「若山」が「和歌山」と改められている。
(Wikipediaより)
南方向~
右の建物が和歌山県立近代美術館
その向こうに秋葉山と雑賀山

※西側
紀ノ川河口が近くに~
住金(現、日本製鉄)の煙突の向こうに淡路島

北側
紀ノ川が町並みで隠れていますが
その向こうに和泉山地
越えれば泉南です。

※西側
紀ノ川上流部です。
遥か向こうに高見山が~
鷲家は紀州藩の飛び地だったそうで~

江戸幕府や紀州藩御用絵師を務めた狩野派の下絵(粉本)だそうで~



着色もされてます。



城郭名城取組標
行司扱いなんですね。

※首里城は前に~


南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日〈慶応3年4月15日〉 - 1941年〈昭和16年〉12月29日)は、
日本の博物学者・生物学者・民俗学者。

生物学者としては粘菌の研究で知られているが、キノコ、藻類、コケ、シダなどの研究もしており、
さらに高等植物や昆虫、小動物の採集も行なっていた。
そうした調査に基づいて生態学(ecology)を早くから日本に導入した。

1929年には地元で、昭和天皇に進講し、粘菌標品110種類を進献している。
民俗学研究上の主著として『十二支考』『南方随筆』などがある。
その他にも、投稿論文、ノート、日記のかたちで学問的成果が残されている。
フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、英語、スペイン語に長けていた他、漢文の読解力も高く、古今東西の文献を渉猟した。
言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。
柳田國男から「日本人の可能性の極限」と称され、現代では「知の巨人」との評価もある。
(Wikipediaより)

※山葉 寅楠(やまは とらくす、1851年5月20日(嘉永4年4月20日) - 1916年(大正5年)8月8日)は、
日本楽器製造株式会社(現在のヤマハ株式会社)の創業者。
日本における初期のオルガン(リード・オルガン)製造者の一人であり、
日本のピアノ製造業の創始者の一人でもある。
嘉永4年(1851年)4月20日、紀州藩の下級武士だった山葉孝之助の三男として生まれる。
父が紀州藩で天文係を務めていたこともあり、幼少の頃から機械いじりが得意であった。
また16歳頃には剣術修行に出て、大和の小野派一刀流の師範・澤田孝友のもとで腕を磨いたという。
(Wikipediaより)


下村 観山(しもむら かんざん、1873年(明治6年)4月10日 - 1930年(昭和5年)5月10日)は、
明治 - 昭和初期の日本画家。本名は晴三郎。
1873年(明治6年)、和歌山県和歌山市小松原通5丁目に、代々紀州藩に仕える
小鼓方幸流の能楽師の3男として生まれる。

1881年(明治14年)8歳のとき、一家で東京へ移住。
父は篆刻や輸出象牙彫刻を生業とし、兄2人も後に豊山、栄山と名乗る彫刻家となった。
観山は祖父の友人だった藤島常興に絵の手ほどきを受ける。
常興は狩野芳崖の父・狩野晴皐の門人だったことから、芳崖に観山を託す。
(Wikipediaより)

※養寿丸
栄養補給剤
カイゲンで現代も販売されている様です。

江戸期の物売り



藩札



紀州藩軍船



道中案内図



漆蒔絵

※布袋様

瓦製鍾馗像

※てんてんてんまりてんてまり~
まりと殿様

紀州てまり



天守の柱
宝篋印塔
向こうの器は鶴の餌入れだそうで~



紀州青石の階段



立派な襖絵と思えば
TVの大道具だったとか~



和歌山城の石垣(打込みハギ)
時代により石材や積み方の技法が異なっている。
豊臣秀長の時代は緑色片岩を中心とした自然石を切り出してそのまま積んだ
「野面積み」の石垣が作られた。
浅野幸長の時代には、友ヶ島等に石切場を整備し、
石を打ち欠いて加工しはぎ合わせて積む「打込みハギ」の石垣が作られた。
徳川期には熊野の花崗斑岩を用いて、切石で精密に積んだ「切込みハギ」の石垣が作られた。
(Wikipediaより)


やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖擦り合うも他所の縁~
いつまで知った景色が在るのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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