古/いにしえの面影       其の一阡七百壱拾九
怪しい親爺輪っぱの会
 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

撮影日  2025年08月26日 火曜日
アップ日  2025年09月28日 日曜日

長野県東御市本海野(白鳥神社)
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)
白鳥神社は、平安時代にこの地に鎮座していたことは、明らかである。
それは、「源平盛衰記」に記される木曽義仲挙兵のくだりによる。
義仲は、治承五年(一一八一年)海野氏を中心に白鳥河原で兵を挙げた。
この白鳥こそ白鳥大明神である。
これが史書の初出であるが、白鳥神社の創建が、いつであるかは、明確ではない。
しかし、海野の地は、奈良時代に海野郷と称し、この地から献上された品が、正倉院御物として残っている。

そんな事からも、白鳥神社の創建は、奈良から平安にかけてと推測できる。
白鳥神社は、日本武尊・貞元親王・善淵王・海野広道公の四柱を御祭神として祀っている。
日本武尊は、第十二代景行天皇の第二皇子で、西征・東征と奔走された。
この東征の帰り道に海野にご滞在になったと伝えられている。
その後、日本武尊は、伊勢の国でお亡くなりになり、白い鳥に化身される。
海野にもこの白い鳥が舞い降りる。そこで、
海野の民は、お宮を建て、日本武尊を祀った。
そして、仲哀天皇の二年、勅命により、白鳥大明神と御贈号されたと伝えられている。
貞元親王(さだやすしんのう)は、第五十六代清和天皇の第四皇子で、
眼病を患い祢津の山の湯で養生され、白鳥大明神で祈願され、平癒されたと伝えられている。
海野広道公は、海野氏の初代である。
このように、白鳥神社は、日本武尊と海野氏の祖をお祀りしているお宮である。
その後、海野氏の子孫である真田氏により、篤く尊崇を受けることとなった。
そして、真田家が松代へ移封となり、白鳥大明神を松代へ分社し、安政五年、海野神社と改称している。
(白鳥神社HPより)


(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

旧北国街道が近くに通っています。

※無料駐車場がありがたいです。

しなの鉄道線と平行して
街道は有ります。

※いざ京へ~
木曽義仲
白鳥河原の勢揃い

海野氏発祥の地碑
海野氏(うんのうじ/うんのし)は、信濃国小県郡海野荘
(現在の長野県東御市本海野)を本貫地とした武家の氏族。
平安時代から同族(海野広道の弟から始まる)根津氏、望月氏と並んで「滋野三家」と呼ばれ、
三家の中でも滋野氏嫡流を名乗り、東信濃の有力豪族として栄えた。資料の初見は『保元物語』で、
源義朝揮下の武士に「宇野太郎(海野太郎)」の名が見える。
『平家物語』には源義仲の侍大将として広道の子の
海野幸親・海野幸広親子の名が出てくるが、共に戦死を遂げている。
(Wikipediaより)

※海野宿案内板

白鳥神社
案内板

※大きな欅が~

境内風景

※社務所

御神木
樹齢700年以上の欅



拝殿舎正面
真新しい狛犬



鯨石の噴水の有る池

※木製の戎大黒像

拝殿舎脇から~

※境内風景

鳥居

※手水鉢

鳥居前狛犬


※吽

神社正面から~

※旧北国街道
海野宿

白鳥神社の社叢



境内社叢



木曽義仲挙兵の地

源 義仲(みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。
河内源氏の一族、源義賢の次男(河内源氏は日本の第56第清和天皇を祖とする清和源氏の一流)。
源頼朝・義経兄弟とは従兄弟(いとこ)にあたる。
木曾 義仲(きそ よしなか)の名でも知られる。
『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、旭将軍とも)と呼ばれている。

以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、
倶利伽羅峠の戦い・篠原の戦いで平氏の大軍を破って入京する。
連年の飢饉で荒廃した都の治安回復を期待されたが、
治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、
皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。
法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍(征夷大将軍とも)となるが、
源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。
(Wikipediaより)

※土俵も有ります。
やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖擦り合うも他所の縁~
いつまで知った景色が在るのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
ページトップへ戻る

Copyright c 2003 Office Young Moon. All Rights Reserved.