古/いにしえの面影       其の一阡七百八拾
怪しい親爺輪っぱの会
 別館 一人歩き編です。

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撮影日  2026年04月17日 金曜日
アップ日  2026年04月28日 火曜日

和歌山県海草郡紀美野町小畑(野上八幡宮)Ⅰ
ワッカン~
資料として気になる街角
撮っておきや!(by UFO先生)

野上八幡宮(のかみはちまんぐう)は、
和歌山県海草郡紀美野町小畑(しょうばた)にある神社。
野上八幡神社と表記されることも多い。旧社格は県社。

欽明天皇13年(552年)、大和国より野上へ八幡神を勧請し、
先住の神である国狭槌尊を聖仙山(標高232m)へ遷宮した。
永延元年(987年)に石清水八幡宮の別宮となり、万寿2年(1025年)に社殿が造営された。
ただし、『八幡宮歴代記』によると、神功皇后が息子の品田和気命を伴って
三韓征伐から凱旋しようとした時、義理の息子の麛坂皇子・忍熊皇子兄弟が兵を起こした。
その際に難波で武内宿禰に品田和気命を預け、自らは紀伊国衣奈浦に上陸して
この聖仙山麓の地を臨時の頓宮としたという。この地はその跡とされる。
天文10年(1541年)の根来寺衆徒の来襲によって社殿、財宝、文書などが焼失した。
弘治3年(1557年)近江国出身の本願坊真賢が社殿・堂舎の再建を決意し、
野上荘をはじめ各地に勧進を行って復興させた。
元亀元年(1570年)には宝蔵・若宮殿・護摩堂が再建され、天正元年(1573年)には
別当寺として東に本願寺、西に神宮寺が建立されている。
天正13年(1585年)の紀州征伐を終えた羽柴秀吉に社領を没収されたが、
慶長6年(1601年)に浅野長政が社領として3石を寄進し、鳥居や神輿を奉納、
放生会などの神事を復興するよう命じた。
(Wikipediaより)


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丘の上の神社です。

※

石燈籠

※

50m程の石段上ります。

※参道途中に国道370号の
旧道と交差して~

鳥居

※主祭神は
誉田別命、息長帯姫命、玉依姫尊

 国道370号です。
国道370号(こくどう370ごう)は、
和歌山県海南市から奈良県奈良市に至る一般国道である。
(Wikipediaより)

※

摂社
国指定有形文化財(建造物)桃山時代 昭和19年9月5日指定
本殿に登る参道の石階段の中程左側に建つ一間社流造
(いっけんしゃながれづくり)の小さな社殿である。
屋根は15ミリほどの厚板を重ねて葺き上げた「とち葺」という形式を用いている。
大きさは本殿の向かって左に建つ摂社武内神社本殿とほとんど同じであり、
記録から天正6年(1578年)に建てられたことが明らかである。
(わかやまの文化財HPより)

※高良玉垂神社サン

神門にたどり着きました。

※扁額
後一条天皇(ごいちじょうてんのう、旧字体: 後一條天皇、
1008年10月12日〈寛弘5年9月11日〉- 1036年5月15日〈長元9年4月17日〉)は、
日本の第68代天皇(在位:1016年3月10日〈長和5年1月29日〉
- 1036年5月15日〈長元9年4月17日
〉)。
諱は敦成(あつひら)。

一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。同母弟に後朱雀天皇。
(Wikipediaより)
鳩フォントではない~

右大臣
後一条天皇の時代なら~
藤原 公季(ふじわら の きんすえ)は、平安時代中期の公卿。
藤原北家、右大臣・師輔の十一男(十二男とも)。
官位は従一位・太政大臣、贈正一位。閑院大臣と号す。
漢風諡号は仁義公、国公は甲斐公。閑院流の祖。
康保4年(967年) 10月17日:元服、正五位下(直叙)
(Wikipediaより)

※左大臣
藤原 顕光(ふじわら の あきみつ)は、平安時代中期の公卿。藤原
北家、関白太政大臣・藤原兼通の長男。官位は従一位・左大臣。
父・兼通が関白になると、昇進して公卿に列するが、兼通の死後は
その弟・兼家(顕光の叔父)と道長(顕光の従弟)父子に実権を奪われる。
無能者として知られ、朝廷の儀式で失態を繰り返して世間の嘲笑を買った。
晩
年、左大臣に上るが失意のうちに死去し、
道長の家系に祟りをなしたと恐れられ、
悪霊左府と呼ばれた。
天徳5年(961年) 正月5日:従五位下(中宮御給)
(Wikipediaより)

虎の皮?

※

絵馬堂
県指定有形文化財(建造物)桃山時代 昭和37年2月13日指定
拝殿と神門(しんもん)の間に建つ正面一間、奥行二間、切妻造、
本瓦葺、妻入(つまいり)で四方を吹放(ふきはな)しとした建物である。
建立年代は明らかでないが、様式手法から見て拝殿と同じ天正頃の造営と認められる。
この建物はかつて床板張りで高欄(こうらん)が付き、
ここで舞楽が行われた舞台であったといわれる。
現在は床を取り除いて絵馬殿として使用されている。
(わかやまの文化財HPより)


※賽銭箱には~
百度参りの為でしょうか?

絵馬堂内の絵馬

※写真も~

いつまでも
あると思うな親と金
無いと思うな
運と災い
肝に銘じます~

※世話人銘
扁額

祭りの風景?
前に~
蛇岩神社も御朱印は
此処で受けられるとか~

※神社拝詞

国指定重要文化財:拝殿、
高良玉垂神社社殿(戦国、安土桃山時代)指定年:1944 年 9月


※前の手水鉢

慶安期の石燈籠
慶安(けいあん)は、日本の元号の一つ。正保の後、承応の前。
1648年から1652年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。
江戸幕府将軍は徳川家光、徳川家綱。
(Wikipediaより)

※
平和酒造は昭和3年、山本保によって創業をされました。

江戸時代からの酒蔵である谷口酒造の谷口保は、
婿養子として代々仏寺であった山本家の家督を継ぐことになります。
その際、生来の酒好きが高じ、酒蔵を創業します。
当時の山号寺号が「無量山超願寺」であったので
現在でも「超願寺」という屋号で呼ばれることもあります。
(「紀伊続風土記」第1輯 巻之三十六 那賀郡野上荘溝口村の欄に、
超願寺に関する記載あり。
紀伊続風土記とは、江戸幕府の命を受けた紀州藩が、
文化3年8月、藩士で儒学者の仁井田好古を総裁とし、
仁井田長群・本居内遠・加納諸平・畔田翠山らに編纂させた紀伊国の地誌である。)

そんな平和酒造ですがこれまで幾度か廃業の危機にさらされてきました。
第二次世界大戦中、激しくなる戦局に学童疎開や京都など酒蔵の受け入れを
国から命じられ酒造の休業をしいられます。 
さらに戦後しばらくしても酒造免許の再開を許されませんでした。 
そこで二代目である山本保正は「休業蔵再開」の陳情演説を行うため国会に足を運びました。
震えながらも休業に追い込まれた無念さ、戦後の平和な時代で酒造りをするという
希望を語り多くの拍手を浴びたそうです。そういう情熱の末にようやく再開の許可がおりたのです。
この時の平和な時代に酒造りをするという想いが
平和という名前を冠した酒蔵名をつけさせたのです。

(平和酒造HPより)


奉納馬

※石畳

忠魂碑

※

拝殿舎脇から~
右は絵馬堂、左は摂社武内神社本殿

※境内風景~

檜皮葺の本殿舎

国指定有形文化財(建造物)室町後期 昭和19年9月5日指定
貴志川中流域に開けた小畑(しょうばた)の丘陵南麓に所在する。
欽明天皇の代に創祀(そうし)され、万寿2年(1025年)の勅命で
阿波の国司が本殿などを造営したと伝える。
しかし、野上荘(のかみのしょう)は石清水八幡宮に属しており、
実際は石清水社の別宮(べつぐう)として勧請されたものと思われる。
延久4年(1072年)の太政官牒(だいじょうかんちょう)に既にその名が見える。
天文10年(1541年)には根来衆徒の焼き討ちにより社殿などを失ったが、
弘治3年(1557年)には本殿と平野今木(ひらのいまき)神社の再建に着手し、
元亀から天正年間にかけて、他の社殿も含めて再建事業を完成させた。

本殿は三間社流造(さんげんしゃながれづくり)、檜皮葺(ひわだぶき)の建物で、
棟札により元亀3年(1572年)に建築されたことが分かる。
背面等に低い腰掛状の壇を取り付けるなど、県内の他の神社建築とは異なる形式を持っている。
境内の他の社殿と比べ屋根が緩やかで、破風板(はふいた)は
折り曲げたような曲線を持ち、組物(くみもの)や建築彫刻も簡素な形式とするなど、
古い様式や形式を持っており、神社の中心となる建物として古い形で再建したと見られる。
(わかやまの文化財HPより)

※本殿舎裏風景~

覆い屋付きの
右:牛頭天王(祇園サン?)
左:恵美須神社サン

※

本殿舎と拝殿舎望む

※大きな樹が有ったんですね。

左から~
子守社
倉稲魂社

※愛宕社

左から
天満社
稲荷社

※左から~
大神宮
春日社

春日社

※住吉社

熊野社
やはり持ってるものはUPして
資料的に残さねば…
気を抜いたらあきません~
何時のが出てくるか判りまへんで!
袖擦り合うも他所の縁~
いつまで知った景色が在るのやら。。

頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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