
高野山街中抜けて~
和歌山県道・奈良県道53号高野天川線は、
和歌山県伊都郡高野町から奈良県吉野郡天川村に至る
主要地方道(和歌山県道・奈良県道)である。
通称・高野大峯街道。
(Wikipediaより)
M氏とバイクです~
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駐車場から~
※神社正面
天河神社社家が代官所に1712年に出した「願書」に「生身天女の御鎮座天照姫とも奉崇して、
今伊勢国五十鈴之川上に鎮り座す天照大神別体不二之御神と申し伝える」とあることからも
判明するように、創建に関わった天武天皇と役行者は、伊勢神宮内宮に祀られる
女神を天の安河の日輪弁財天として祀った。
天河における天武天皇の眼前の上空での吉祥天の舞が五節の舞として現在にいたるまで、
宮中の慶事の度に催されている。
他に、熊野坐大神、吉野坐大神、南朝四代天皇の
御霊(後醍醐天皇、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇)、
神代天之御中主神より百柱の神が配祀されている。
(Wikipediaより)
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扁額
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狛犬
阿
※吽
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斎灯殿の上に見えるのが本殿舎
歴史
室町期の僧英俊による多聞院日記に、「天川開山ハ役行者」と記述がある。
天河大辨財天社の草創は飛鳥時代、役行者の大峯開山の際に
蔵王権現に先立って勧請され最高峰である弥山(みせん)の鎮守として祀られたのに始まる。
弘法大師空海が高野山の開山に先立って3年間大峯山で修行し、
最大の行場が天河神社であった。
弘法大師にまつわる遺品が奉納されている。
※
社殿の造営は天武朝で、壬申の乱の際、天武天皇が戦勝を祈願、勝利の後寄進されたという。
また天河神社の神殿の下には古代の磐座があり、社伝によれば神武天皇がここで
ヒノモトの言霊を賜ったという。
天河神社が鎮座する坪ノ内は、南朝の黒木御所が47年間置かれた土地といわれており、
そのため南朝の崇敬が特に篤かった。
当社は江戸時代までは琵琶山白飯寺と号し、本尊を弁才天(宇賀神王)としていたが、
明治の廃仏毀釈で白飯寺は廃寺となり、本尊の弁才天は市杵嶋姫命と改められた。
『吉野町史』によれば「吉野総社」として列せられていた歴史があり、
「大峯第一、本朝無双、聖護院、三宝院両御門跡御行所」(天河社旧記)や
「大峰本宮」として格式の高い社として認識されていた。
大峯山に於ける信仰の中心地しての地位を早期に確立していたことは特筆すべきである。
神職は代々社家の柿坂氏と井頭氏の二家から順番に出す慣習があったが、
明治以降井頭氏が神職継承をやめたため、現在は柿坂氏によって世襲されている。
昭和40年ごろから一部の神道家達の間で秘めたる日本弁財天総本宮と注目され始め、
今は精神世界のメッカ的存在として脚光をあびている。
(Wikipediaより)
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檜皮葺屋根の手水舎
※手水鉢
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1970年に一級河川の指定を受けた当初は新宮川(しんぐうがわ)であったが、
地元では熊野川の呼称が定着しており、変更の要望が多かったため
1998年4月9日に法定名称が熊野川と変更された。
水系名は新宮川水系のままである。
熊野川の名前は下流域の「熊野」という地名から来た。
江戸時代の『熊野参詣記』によると「岩田川、畿田川、音無川の三流落合を巴ケ淵と云う、
夫より下を熊野川という九里八丁也」とし、本宮より下流を「熊野川」と言うことが分かる。
天川村、五條市内では天ノ川(てんのかわ)と呼ばれ、「高天原」に由来すると言われる。
十津川村内では十津川(とつかわ)と呼ばれ、都や津(港)から遠い川、
つまり「遠つ川」という意味である。
河口付近の新宮川は和歌山県側の熊野速玉大社のある「新宮」という地名に由来する。
一方、三重県側の旧鵜殿村付近では明治初期から昭和前期頃まで音無川と呼ばれる。
(Wikipediaより)
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五社殿の摂社
※日本遺産なんですね。
後ろの皇太子奥宮行行啓記念碑~
天河神社が鎮座する坪ノ内は、
南朝の黒木御所が47年間置かれた土地といわれており、
そのため南朝の崇敬が特に篤かった。
(Wikipediaより)
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本殿舎前は撮影禁止~
この後、洞川の方に行きましたが…
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